炎の蒼

 闇に潜む者がいる。
 さまざまな理由を抱えて、
 姿もなく砂漠を駆ける、花。
 陽の下では咲かぬ、
 毒を含んだ―――

4、砂漠に咲き誇る花

 千夜一夜(アルフ・ライラ・ワ・ライラ)316年、次の氷る月(ジュマーダー=アルアーヒラ)
 ガーユルは奴隷だった。幼い頃に父親に市へ売られ、それ以来ひどく苦労して生き延びてきた。瞳の漆黒が9歳の子供とはとても思えない色をおびているのも、そのせいだ。並みの大人よりも世間のウラというやつを知っている。
 だが今はもう奴隷ではない。今の主は仕えて1年でガーユルを解放した。だからこの2年間、ガーユルは自分の意志で今の主に仕えている。
 今の主は、裏街道を歩いているくせに表街道も大手を振って歩けるというとんでもないヤツではある。だがガーユルにとっては恩人でもあり本当に良き主である。
 今、ガーユルがいるのは〈北の国〉バルクに近いオアシスのひとつである。主はまだ、ガーユルを仕事に連れて行ってはくれない。それは不満であり――だが、主は知っているのだろう。
(僕がまだ甘えていたい…って)
 沈みゆく陽が辺りを朱色に染めていく。名も知らぬ大木の枝の上で、ゆっくりと流れる風を感じながら、ガーユルは砂漠の彼方を見ていた。
 あか、むらさき、あお――――やみ。星と月あかり。まもなく夜がくる。
 未だ陽炎の残滓がゆらめく彼方、ぽつりぽつりと生き物の落とす影が見えてきた。砂の海を渡り通す獣―――二角獣(カウニコーン)。10騎以上の群れ。
 ガーユルはすばやく木から滑り降りた。
 ……仕事の時間だ。


 次々に二角獣から降りる黒ずくめの男達。少々奇妙ではあるが、隊商がねぐらを求めてオアシスにやって来たと見えないこともない。男達は雑談をしながら、それぞれ好き勝手な方向へバラけていく。彼らの正体は、盗賊である。近頃、近隣諸国で噂になっている盗賊団〈砂漠の黒薔薇(サハラ・ノルヴァス)〉だ。
 ここに居るのは、あと月の刻2つ。根城はこのまだ先だ。
 ガーユルはそれぞれの二角獣の手綱を順に受け取っていき――首をかしげた。
 一番目立つあの2匹が帰っていない。必然的に、2人の乗り手も。
「雪荒れ(イシィヤ)!」
 ガーユルは、銀の髪と瞳をした男を呼び止めた。
「何か、闇裂き(ラウィド)
「頭(ザイー)と敵滅し(シャルカーン)はどうしたの?一緒に行っただろ?」
 イシィヤは眉根を寄せた。
「2人一緒だったのは覚えてるんだが。わたしはちょっと私用で忙しかったので、見ていないな。もうすぐ帰ってくるだろう」
「そう……」
 ガーユルはしょんぼりと二角獣を泉へ連れて行った。共に行動していても、同じものを見ているとは限らない。他の人に聞けば見た人が1人はいるはずだ…だが、休息の時間を邪魔できるほど重要なことでは無い。そう思ったのだ。
 今宵、月は半月。満ちきれず、欠けきれず。
 二角獣たちが泉へすべりこみ、ゆるやかな波紋を絶え間なく生み出す。幾度も幾度も、円が生まれ、岸へ寄せては消えていく。何度も……。
 ―――――何度も。


 花の香で目が覚めた。ゆらゆらりと不規則に揺れる空、冷たく不安定な月の光。
「まだ眠っててもいいぞ、ガーユル」
 後ろから囁かれたその声で、自分がどこにいるのかわかる。
「あ、れ……?ザイー?」
 頭がはっきりしていくにつれて、ガーユルを見下ろしている男の顔が見えた。紫がかって見える黒い髪と瞳。まだ若く、青年と呼んでいいのか少し迷うところだ。半ば隠されてはいるが、秀麗であろうと予想できる顔立ちをしている。
 彼の腕に抱かれるような形で、ガーユルは二角獣に乗っていた。
「あぁ、僕…寝てた」
「このところずっと移動だったからな。疲れてるんだろう。寝てていいぞ」

 …そう言われても、素直に寝こけてはいられない。一番疲れているのは目の前のザイーなのだから。
 ザイーは黒紫色の薔薇を片手でひねくりまわしていた。さっきの香はこれが原因か、と今更ながらに思う。
 と、ザイーと同じ年頃の、黒茶の髪と瞳をした男が二角獣を駆って近付いてきた。
「どうだった、聞き耳(アトラク)
「明日、夕刻に近くを通る。目的地はバルク。二角獣13頭の駱駝が25頭」
ザイーは軽く眉をひそめた。
「バルクに?一体、何で」
「あれ、ザイー、あんた知らないのか?ほら、バルクって3年前に王妃が亡くなっただろ。今度のライラトゥ・ル・カドルに喪が明けるから、王様が妾妃を正妃にするんだと。その祝宴への荷だよ」
「………妾妃を、正妃に」
 ザイーはぽつりと繰り返す。その双眼は暗く沈み、何の感情も生み出さない。
「あの国も何だかんだあるしな。ほら、前の正妃の王子は出奔しちまったし、王は最近病気がちだって言うし、それに…ザイー、知ってる?」
「何を」
「あそこの大臣(ワレジール)、カシム」
「……ああ」
ザイーは不敵に……残忍に……笑った。
「遠慮は要らん。派手に…やれ」
「おお、それでこそザイー!それじゃ」
アトラクが二角獣を駆り、先に行って…。ザイーはガーユルにしか聞こえないくらいの小声で、言った。
「帰らねばならぬのかな、私は」
 ガーユルは、答えなかった。


 次の日の日中は暇な時間だった。
 皆、それぞれに好きなことをして時間をつぶす。
「…それで、どうするんだ?」
 ザイーにたずねたのはコラサン人の男。灰色の髪に、どことなく緑色の混じる灰色の瞳。右目を斬り裂いた古い大きな傷跡は、白い肌にくっきりと浮かびあがり、整った顔に凄みを与えている。歳はザイーよりも2つ3つ上といったところか。
「ま、帰るにしても帰らないにしても、おれはあなたと一緒に行くさ……あいつが、前にいるかぎりは」
「そうか…そうだな、シャイザ」
 シャイザは、くくっと頬をゆがめるような、からかうような笑みを浮かべた。
「考えすぎるなよ。思いつめるフシがあるからな、あなたの場合」
「…何だよ、それ」
 ザイーはまるで小さな子供のようにふてくされる。
「思いつめるって…そりゃ確かに少し思いつめてたかもしれないけど、やるべきことは分かってる。平気だ」
「それが本当なら良いんだが?」
「嘘ついて何になる」
「そりゃあ、気分で突っ走る人の言うことだから、なぁガーユル?」
「えっ?」
 ちょうど寄ってきたガーユルは、いきなり話をふられてきょとんとする。
「こいつが、気分で動いてる奴だってことさ」
 ガーユルは目を丸くして、
「確かに……」
ぽんと手を打って言った。
 ザイーは呆れた顔をしてその様を眺めていた。………



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