綺羅の夢、雲母の幻
「―――成りそこない!」
ひゅ、と息が詰まる。囁きに見せかけて、けれどしっかりと聞かせるように投げつけられた言葉。
周囲の『大人』は何も言わない。…聞こえていないのか、それとも無視しているのか。
目の眩むような怒りに身が震えた。同時に、身体の奥底でひちりと炎が。……だめ。
やっとの思いでほんの少し唇を開いて、熱い吐息をつく。だめ。だめ。お願いだから静まって。
「はなして」
髪を結ってくれていた女官のひとりが、咎めるように口を開きかける。
「c(ユイ)様――」
「はなして…!」
悲鳴のように叫ぶと、cは編みかけの紅髪を振り乱し、駆ける。鳳凰山、火炎宮の奥へ。
背後に起きた女官達のざわめきはすぐに消えた。〈朱雀〉の姪姫の『我儘』には慣れっこになっている。そういうことか。
悔しい、悔しい、悔しい!
にじむ涙を必死に呑みこんで、cは走る。
見せるものか、泣いてなどやるものか!
熱が、大きなうねりとなってcを包んだ。――あ。そう呟く暇もなく、黄金と赤みの強い紫色の炎が、轟と起ちあがる。気がぱちんと弾けて、火炎宮の壁をなめる。四方へ広がって――だめ!
「母様」
cは震えながら呟いた。涙が溢れ、後から後から頬を濡らす。
「母…様」
よろよろと、むかうは綺羅(きら)池。火炎宮の中心、本来ならば〈朱雀〉にしか許されぬ場所。
だがcはそこに昔から立ち入っていた。伯父たる〈朱雀〉は何も言わず、ただ、cがあまり帰ってこないようなことがあれば迎えに来た。――それが、伯父の愛情なのだと知ってはいたけれど。
綺羅池に映るのは夢だという。その夢がcには必要であった。
涙で曇る視界の中で、cは母の姿を願う。水面は静かに揺れて像を結ぶ。母――そしてそれに寄りそう誰かの姿。
「………!?」
涙をぬぐい、その誰かの姿をもっと、と願う。もしや――
「……熾Y(シーイェ)!?」
けれど水面に映ったのはその人ではなかった。
少年――子供、といってもいいような外見の、艶やかな黒髪ときつい銀灰色の瞳をもって。…泣いている。
「熾Y……あぁ。違う」
自分が泣いていることにも気付いていないのかも知れない。彼は、静寂を従えているようだった。
「すまぬ。その…………知人に似ておったので…」
「あなた…だれ?」
夢の中にいるように問うた。
「吾は静。――そなたは?」
「c…」
応えてようやく「会話」をしていることに驚く。この人は、今初めて会ったのだけれど、何か安心する――
「着飾っておるのにそのように泣くとは…いかがいたした?吾でよければ話してみぬか?」
言葉はすとんと心に収まった。――と、奔流のように言葉が溢れ出していた。
「わ、たしっ…わたし、成人できないの…千の齢を今日、迎えるのに…無理なの……。どうしたって炎は暴れてしまうし、成獣にも『成れ』ない……伯父上はあんなに綺麗な緋色の気を出す〈朱雀〉なのに……!できそこないなんだ…」
「そんなことは――」
ない、と言うのだろう。そう。
「皆、言うもの。わたしの――わたしの母様は神鵬族(しんほうぞく)じゃない別の人と結婚したって。伯父上がどんなに止めても聞かなくて、かけおちしたんだ、って…。伯父上はわたしを引き取ってくれたけど、ほんとは、こんな『成れ』ない子なんて、嫌いなんだ……いらないんだ…!」
「ああ、c!」
人を魅きつける声音で静は言った。
「c、聞くが良い。吾は…そなたの父を知っておる」
え、と小さく呟くcに、静は少し照れたように告げた。
「友としても…主としても。およそどんな立場になっても最高の男であった…。c、そのように自分を卑下するでない。『成れ』ずとも怖れることはない。そなたの父は種族的な標準でいえば二倍かかった。だがその分自己をよく律したし、仁深く――良い奴だった」
静はいたずらっぽく笑ってみせた。
「なぁに、なかなか『成れ』ぬのは四神の地位につくものには良くあること。力が大きければ大きいほど器が大事なようでな……どうも上手くいかぬらしくて――そなたも、まだ、器を『成ら』す途中なのだろ」
「ほんと、に…?」
「ああ、そなたの父と母を知る者として保証しよう」
最も吾の保証では保証にならぬかもしれぬがなァ…くっくと静は笑って、そして柔らかく言った。
「泣くでないよ、c」
cはきゅっと目を瞑ると、小さく、けれどしっかりと「はい」と答えた。
「――c!」
張りのある、真直ぐな青年の声に振りかえる。
「伯父上…」
「…ああc、心配したよ。どこにいったかと…」
〈朱雀〉たる青年は姪姫をしっかり抱きしめて、ほんの少し眉根を寄せた。
「あのね――」
「〈朱雀〉殿、あんまり怒るでないよ。cは吾と話しておったのだから」
池からの声に〈朱雀〉は瞠目した。
「……静老大!?どうして…」
「なに、綺羅(きら)と雲母(きら)の夢幻であろう?最近、渾沌(こんとん)がどうにも落ちつかぬと思ったらこの次第。まぁ、これはこれで楽しいし、良いのではないか?」
「た、楽しい…ですか……。――ああc、髪がぐちゃぐちゃだ。整えておいで」
「…はい。伯父上」
cは駆け出そうとしたが、ふと思いついて止まった。
「静……様。あの…」
「様、なんぞ、つけんで良いわ。他ならぬそなたゆえ」
返る声にcは少しきょとんとした。それから笑った。
「ね、静……また話してくれる?会ってくれる?」
静は不思議なゆめみるような目で、――言った。
「綺羅の夢、雲母の幻……望めば、な。c。行っておいで」
いっておいで。その言葉は、暖かく、
―――わたしを包んだ。
静と伯父上が何を話したのかは知らないけれど、それから暫く経って…わたしがようやく炎のように美しい鳥の姿を表せるようになった頃…。
「炎華公……熾Yというんだ」
「え?」
「お前の父親は…。火龍だった」
よく似ている。その炎の様は。c…。
恋焦がれるように伯父上は呟き、それからは折にふれて、ほんの少しずつだけど父の事を話してくれるようになった。
―――静とは長らく会わなかった。わたしがとうとう『成った』時に、綺羅池から祝福の言葉と、そして父の姿を見せてくれた。
彼がどんな人だかわたしは聞かなかったし、彼も何も言わなかった。
生まれて七千年の齢を数え、妾(わたし)は四方将神――四神の〈朱雀〉となった。
他の三方の将神との対面の時――…。金闕雲宮(きんけつうんきゅう)の万象殿で、妾は懐かしく、慕わしい、けれどかすかに深く…長い悲しみを秘めた声を聞いた。
「おお、これはずいぶんと娘らしく、麗しく『成った』ものだな、ちび朱雀?」
他の二人が「静老大」とあわててたしなめる声がして――妾は顔をあげる。
言う事は…ひとつ。
「長らく会わずにおりましたからね。…いってまいりましたよ。じじ玄武、殿」
変わらぬ声、変わらぬ姿。初めて生身で会う、彼。
くすりと笑う。
「敬称は要らぬと言うたであろう?c」
「覚えておりますよ、静」
あっけにとられる〈青龍〉と〈白虎〉に、二人でにこりと笑いかける。
そして妾は〈朱雀〉として礼をする。
綺羅の夢と雲母の幻がつないだcと静の絆は……それから長きに渡って続くことと、なる。
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