お気をつけなさい、将軍。嫉妬というやつに。
こいつは緑色の目をしたばけもので、
人の心を餌食とし、これをもてあそぶのです。
四角い画面の中で、たいへん美しいイアーゴーの唇が、
毒色をした言葉を紡ぎあげた。
「ねぇ、夜姫(ヨキ)」
その甘い声といったら!ぞくりと背筋がざわつく。
「綺麗でしょう、そのオセロー」
由帰(ユキ)が俺の耳元で、その赤い唇から毒色をした言葉を紡ぐ。
俺はその言葉に押されて、画面へ視線を戻す。
「私、演ってる最中、ずっとあの娘に恋してたもの」
「……デズデモーナに惚れなくっていいわけ?」
「デズデモーナは可愛かったよ」
先日、由帰は舞台に出た。三年ぶりに。
男女逆転して演じるシェイクスピアの「オセロー」で
――由帰はプロの役者なのだ――滅多に舞台に出ないくせに――
イアーゴーを演じた。
公演期間はたったの三日で、劇場はいつも満杯だった。
「誰?」
「――希玖(きく)だよ」
由帰は俺にすら、双子の弟の俺にすらかくしごとをする。
それも頻繁に。きく――の事もそうである。
「希玖という役者は私が育てたんだから――俺のモンだよ」
由帰はきゃらら、と享楽的に笑った。
「夜姫、夜姫、今度一緒に会いに行こうね」
―――行こうねェ、と妙に伸びた語尾が気になった。
由帰というのは台本以外何もかも捨ててしまうような人で、
勿論パンフレットも捨てようとしていた――のを勿論俺が止めたのだった。
テレビで放映された時に
(つまり由帰は相当に凄い役者なのだ。俺には信じられない)
観るのに困る、と。
ところが由帰は、
稽古場の写真が載ってるようなとんでもないものを何故見る馬鹿、
などと言って必死で隠した。
おかげで俺は今、パンフレット無しでその「オセロー」を観る羽目に陥った。
――役者が誰だか解る訳が無い。
手がかりは少し。名前はきく。
性別は、どうやら女。
(姉――と言って良いものか迷ういきものたる由帰が
女として通用しているのだからこれは本当は不確定なのだが、
由帰のような変なものがそうそう居る筈もないだろう)
背は高く、細身。
そしてこの由帰に「育てられた」役者らしい。
その役者、きくは俺の印象に残った。強く。
由帰はそれを読み取ったか、珍しい、と呟いた。
本当に珍しい。我ながら珍しい。
つまり――由帰の言うように――「綺麗」だったのだ。
その――オセロー将軍は。
……シェイクスピア作「オセロー」は嫉妬をテーマにした作品だ。
ムーア人の将軍オセローを妬んだ旗手イアーゴーが、
副官キャシオーとオセローの妻デズデモーナが姦通したと思い込ませ、
オセローを死へ追いやる。
だが、由帰の出演した「オセロー」は――
演出がそうなのか脚本がそうなのかは定かではないが
(由帰は絶対に俺に台本を見せない。台詞の練習も家では決してしない。
だから俺にはさっぱり解らない)
――奇妙だった。
シェイクスピアの「オセロー」なら読んだ事はある。
……そうか。結末が――結末に繋がる重要な一場が違うのだ。
オセローは自ら死ぬのではなく、イアーゴーに殺される。
しかも―――ああ、そうか。俺は嘆息する――。
「由帰」
「なに、夜姫」
「このオセローはとても艶めかしい」
由帰はゆっくりと唇をつりあげた。
オセローは希玖。
そう……夜姫が惚れないはずがない。あの娘に。
私の希玖に。
画面は一瞬で闇に満ちる。
そして、まろい光が一筋、オセローを照らしだす。
背の高い、細身の、ムーア人には到底ありえない白い肌、淡い茶色の髪、
ほとんど灰色の眼――。
彼(オセロー)は舞台の中央に座っている。
片膝を立て、片方の脚は伸ばし、僅かに俯いて、
――長すぎる前髪がばさりと垂れかかる――す、と立ち上がる――
光はゆるく拡散して舞台を照らしだす。
デズデモーナが目を覚ます。
―――どなた?オセロー?
男優の、けれどたおやかな美しいデズデモーナに化けた――
高く澄んだ声が、甘く台詞を告げる。
オセローは優しく柔らかく――高い声で応える。
―――そうだ、デズデモーナ。
その光景をイアーゴーが冥府の使者のように見ている。
彼(オセロー)はとても辛そうに聞く。
―――今夜の祈りはもうすんだか。
―――ええ、あなた。
無邪気な妻(デズデモーナ)の声。
彼(オセロー)は――おまえの魂まで殺したくない。祈りのように言った。
なんと儚く甘いオセローだろう。
イアーゴーのひどい毒に侵されて。
イアーゴーのまがまがしい欲に犯されて。
由帰の演じるイアーゴーは美麗な皮を被り、
忠義を装った毒を舌先で転がし、耳から――
ハムレット王を殺すように耳から――流し込む。
哀れなオセロー。
惨めにも運命になぶられたオセロー。
見捨てられた子供の目をして彼はデズデモーナを見つめる。
誰かが詰る。悪魔が天使を殺した、と。
オセローは泣きだしそうに顔を歪めて仰のき――そこにイアーゴーが、
イアーゴーが――くちづけを。
poisn kiss。
イアーゴーが嗤う……由帰が笑う。
由帰が囁く。
どう、綺麗でしょう。
由帰の言葉は俺の耳にも毒を落とす。―――恋のように。
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