天界の北、森羅山(しんらざん)渾沌宮(こんとんきゅう)――。
「きィたァ〜」
ゆるる、と声が響いた。
「きたーぁ。きったきったきったきィた♪」
浮かれ楽しげに踊る声。
「―――水陽(きた)♪」
ひょいッと廊下を回りこんで現れた男に、英(イン)は顔を上げる。
「いたぁ〜水陽〜」
英を見て、くるると彼は笑った。
「どうしたんですか?渾沌(こんとん)」
英もつられて笑う。彼――渾沌に、問う。
「なんだろね〜?水陽」
「…なにかあったんじゃないんですか?」
「なにかあったのかもね〜」
「どうしたんです」
「どうもしてないよ〜」
「呼んでおいてなんですか?」
「呼んだだけかもね」
「かもって…」
「ん〜と、ねぇ…」
渾沌は、ちろりと英を見る。困りつつ、それでもニコニコと笑っている彼に。
「――玄武が探してた」
英の表情がすっと強張った。
「…な、……なんで早く言ってくれない…」
――渾沌は、背の高い細身の青年の姿を好んでとる。髪は金やら茶やらの混ざった色、瞳は見事な桃種(アーモンド)形で、漆黒。のらくらと好き放題に物事をひっかきまわす、彼が渾沌。この渾沌宮そのものの「意志」である。
「なんかね〜、蟠桃会(ばんとうえ)のご招待で〜」
急ぎ足で進む英の後にくっついて、まだ渾沌はなんやかやと言っている。
「いっつもお留守番じゃなんだからぁ、今回は私も行こうかと思って〜」
「……はい?」
英は思わず振り向いた。
「誰が…?」
「私が〜」
「…どこに?」
「蟠桃会に。玄武と一緒に〜」
「………いいが、いいのか?」
突然割り込んだ…少年の声。
「静(ジン)様!」
「なんで〜?玄武」
少し不機嫌そうな表情をして歩いてくる黒髪の少年。どう見ても子供にしか見えないがれっきとした大人…どころか老人である。大きな灰色の瞳をゆっくり一つ瞬いて、北の〈玄武〉たる静は、従者たちを見上げた。
「渾沌。吾(わたし)は別に構わぬが、そなたの知り人は最早、おらぬぞ?」
「だいじょぶだよ〜、私玄武が思ってるのより知り合い多いし♪玲(リン)ちゃんとか月沙(ユエシァ)ちゃんにも会いたいし〜」
ほろっと口にされた〈青龍〉と帝の側仕えの名に、英は瞠目する。…渾沌も静も、天界の誰より年上だというその事実は、はっきり言って忘れられやすい。
静はその可愛らしい顔をちょっぴりしかめた。
「……まぁいいが…」
もごもごと口の中で呟くと、英の袖をぐいと掴むと、歩き出す。
「ぅわ!?じ、静様どこへ?」
「蟠桃会の仕度だ!当り前であろう」
「あ、はい、そーですよね」
てけてけてけ。英は促されるままに歩いて、ふと言った。
「正装ですか?」
静は、この世の誰よりも不幸そうな表情をした。
「正装だ…」
英は、正装した主の姿を思い描いて、その可愛らしさ凛々しさに、ニンマリした…。…がしかし。
「――ああ水陽、そなたも正装するのだぞ?」
「へ?」
「…むしろ普段より数倍着飾って行け」
鬱陶しそうに着替える主にそう言われ、英は驚いた。
「なんで僕まで?」
「おや」
にやりと静は笑う。
「―――蟠桃会にはちび朱雀も来るのかのぅ、…来るのであろうなァ…」
「ありがたく着飾らせていただきますっ」
英は浮かれた――。
(里零(リリン)に逢える。里零に逢える――!)
…里零とは朱雀の側仕えである〈山陽(みなみ)〉の名――。英の恋人である。
ああ、嬉しい。渾沌の浮かれっぷりも気にならない。
夢見るような表情でぽえーとしている英を見て、髪に編み込んだ玉の重さを急に感じて、…静は人知れず溜息をついた。
渾沌宮の朝は過ぎてゆく……。
天界の南、鳳凰山(ほうおうざん)火炎宮(かえんきゅう)――。
「変」
「え」
「…じゃないかしら?」
鏡をまじまじと眺めて〈朱雀〉たるc(ユイ)は言った。
「変じゃないですよぅ。お似合いですってー」
褒め称えつつ、里零(リリン)は歩揺をもう一本髪に挿した。
「はいc様、完成ですぅ。……どうですか?」
主の紅い髪は複雑に編みあげられ、歩揺と玉とで飾られている。ゆるりと垂れた後れ毛が白いうなじにかかり、どことなくなまめかしい。
「……変じゃない?」
沈黙の末に主が言ったのはそれだった。里零は内心溜息をつきながら、何度も何度も言った台詞をもう一度繰り返す。
「すっごく綺麗です。全然変じゃありません。お見事です〈朱雀〉様」
「ほんとに…?」
「ほんとですってば」
全くこの子は…という心境になってしまうのは仕方ない。里零の方がcよりも二百歳ばかり年上なのだから。
「大丈夫ですよ。〈玄武〉様だってイチコロ…」
「べっ、別に静なんかの為に着飾ってるんじゃないわよッ!?」
……裏返りかけた声で言われても説得力ありませんc様。
ツッコミしたいのを抑えつつ、里零は沓(くつ)を選ぶ。
「だーれがあんなじじ玄武なんかっ」
そう毒づきながらもほんのり紅く染まっている頬にも、見て見ぬふりをする。
――〈玄武〉と〈朱雀〉の仲の悪さ…仲の良さ?は天界中で有名だった。
会う度に、一歩間違えば単なるバカップルのいちゃつきになりかねない嫌味というか、からかいの応酬をし、気がつけば名前呼び捨てだし、(仮にも四方将神の一員である彼らを呼び捨てにする人はまずいない)
cが〈朱雀〉になる前から顔見知りのようだし…。しかし天人たちの噂のどれにも彼らは口をつぐんで語らない。噂が飛びはじめた頃から二人の仲はギクシャクし、ぎこちなくなり、しまいには敬称で呼び合うまでに悪化(?)した。使いが頻繁に行き交うこともなくなり(むしろ思いっきり避けている)はて、この二人は仲が良いのか悪いのか?という次第になったのだ。(主の顔を立てようとすると、勢い英と里零も迂闊に逢えなくなってしまった。哀れである)
……里零(リリン)が見る限り、cは完全に、誰がどう見ても、静が好き!なのに意地っ張り、かつ噂になるのが嫌で素直になれない…それだけである。
(これで…〈玄武〉様がc様に惚れててくれたら話は簡単なのに)
里零はそう思う。……だが、静は、なにせ七万年も独身だし(やれやれ)最近は地上…下界の様子が思わしくなく〈玄武〉は忙しくて色恋どころではないらしい。
(孫…よくて娘くらいにしか思ってないよね…)
cの父親と静は親友だった。それに、静とcの年の差は七万歳VS七千歳という恐ろしいものであるし…。
(でも応援しちゃう。c様ってば可愛いんだもの♪)
………ああ、ここにも従者バカがひとり。
そうして、火炎宮の朝も過ぎてゆく…。
天界の東、東海(とうかい)の水晶宮(すいしょうきゅう)――。
「冴幻(フファン)」
「はい、なんですか玲(リン)様」
「私(わたくし)はとても悩んでいるのだが」
「なんです?」
「遙池へはどう行こうか?水脈(みち)か?彩雲か?」
「…好きな方でいいんですよ玲様」
「そうか?」
「はい」
……数分後。
「冴幻」
「はい、玲様」
「私は困っているのだが」
「どうしました?」
「やっぱりきちんと装った方が良いのだろうか。むしろそんなに装わない方が良いのだろうか」
「……一級正装で行くべきだと思います」
「そうか?」
「はい」
………また数分後。
「冴幻」
「……はい、玲様」
「私は決めかねているのだが」
「次はなんです?」
「従者を連れて行かないのはまずいだろうか。あんまり多くは嫌なんだが」
「………誰も連れないでもいいですけどせめてわたしくらいは連れて行って下さい」
「…そうか」
「はいっ」
…………さらに数分後。
「冴幻」
「あーもうっ今度はなんです!?」
「ほ…歩揺の玉は真珠と金剛石の……どっちか…」
「真珠ですよ真珠ッ海の至宝を見せびらかしゃいいんです!」
「そ…そうか?」
「はいッ」
……………重ねて数分後。
「…冴幻…」
「なんでいつもはキッパリさっぱり即断即決なのに今日に限ってそんなに優柔不断なんですか!?」
大ボケ青龍と生真面目従者の、水晶宮の朝はのどかに過ぎてゆく…。
天界の西、珀漠(はくばく)――を過ぎてさらに西、遙池(ようち)――。
「祥(シアン)様」
「あ、すっげぇ、彩雲がたっくさん!」
「祥様」
「静老大(ジンラオター)とか早く来ねーかなーぁ」
「祥様」
「あ、玲姐々(リンチェチェ)のトコの昇陽(あがり)でもいいや」
「…祥様」
「c娘々(ユイニャンニャン)だって、可愛いもんなぁ…」
「祥様…!」
「皆……楓(フェン)みたいに意地悪くねぇもん」
びし!と鼻先に指を突きつけられて〈白虎〉の側仕え…楓はむっとした。
「だから謝ってるでしょう?」
「謝ってる態度じゃねぇじゃんよ」
祥は唇をとがらす――…。
「俺がどんなに次期様を慕ってるか知ってるくせに。おまえのこと――!」
祥は不意に口をつぐむと、桃園に向かって駆け出した。
「ついて来んな!絶対、ついて来んなよ!!」
二度振りかえり、二言叫んで……祥の姿は見えなくなった。
彩雲はずいぶんと近づいて来ている。楓は深々と溜息をつき、
「やれ、やれ…」
元気のない足取りで斗闕の方へ向かった。
……遙池の蟠桃会は間もなく、始まろうとしていた……。
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